今朝の新聞に県民世論調査として「長野県を教育県だと思う県民は8.7%」という結果が出ていた。また4割以上が「教師の教える力が低下」と答えている。さもありなんと思う。
高三の息子の通っている県立高校が、再来年からモデルケースとして中高一貫校に変わることになった。この高校は旧制の色を今時珍しく色濃く残している高校で、馬鹿馬鹿しいことを本気でやる気風が残っている。校則もなければ制服もなく、生徒の自治を重んじる校風ゆえに息子にも勧めたし、彼も正に青春を謳歌しているようだ。中高一貫となって偏差値を追い求めることなく、その馬鹿馬鹿しさを認める寛容さが失われないことを願うのだが・・・
過日、高校山岳部のOBと昔話をしてい時、どこの山に登ったというよりはその時の馬鹿をやった話しばかり思い出して笑った。高校時代という最も多感な時期、仲間や先輩と「山」という治外法権的な場で過ごす時間を持てたことが、それ以後の自分の人生にどれだけ大きかったかとつくづく思う。
山岳部は無人の山小屋を持っていたのでそれこそ年中小屋にたむろしては遊んだ。冬には2階まで雪に埋まる豪雪地帯 の谷川岳にあり、夏なら登山口から1時間で行けるが、冬は豪雪に途中でビバークしてたどりつくこともあったが、届けさえ出せば高校生でも自由に使えた。今思えば随分とおおらかな学校であった。電気はなくランプと大きなストーブと沢から引いた水があった。谷川岳で合宿があればそのまま休みが終わるまで居着いたし、例え北アルプスや東北の山で合宿があっても終わればこの小屋に自然に集まってきて、社会人となったOBや大学山岳部の現役と語ったり、登ったり、雪下ろしをしたり、便所掃除をしたり、飯を作ったり、飲んだりしていた。本当に濃密な時間であり、決して学校教育では学べない多くのことを学んだ。
そういう一見無駄で馬鹿馬鹿しい時間こそが今の子供達には絶対的に必要な時間だと思うのだが。