台風18号で増水した淀川に流された子供を中国からの20代の留学生が二度飛び込んで救助。一度目は掴んだ小学生が離れてしまい流されていく。フラフラになりながらも岸にたどり着いた留学生は、下流に流された小学生を追い、集まって来た人達の持つ細いロープを体に結びつけて再度飛び込みあわやのところで救助したという。また先日は40才の女性が踏切内で倒れている老人を助けようと、父親の運転する車から飛び出して老人を助けたが、自らは亡くなられたという。ご両親は「見て見ぬふりを出来ない優しい子だった。老人を救えたことがせめても慰めである」というようなことを気丈におっしゃっていた。
咄嗟の『勇気』と『本当の優しさ』で救われた二つの命がある。涙する。
こんな咄嗟の『勇気』が必要な状況に誰でも出会うことはそうそうないであろうが、『勇気』や『優しさ』というのは人間生活の中で常に試されているように思う。子供に対してでも、親に対してでも、友人、いや社会に対しても常に試されているように思う。単に言葉だけの『優しさ』だけではなく、『本当の優しさ』も試されているように思う。自分のしていることが『優しさ』と、本当のところは全く違うのに勘違いしていたりもする。『優しさ』というのは兎角難しいものでもある。
ワタクシはオヤジから「電車では立っていろ」と言われて育った。いつもGパン姿でも、もうカンレキだからとも思うが、自分より年上が乗ってきたらとキョロキョロしているのも疲れるし、譲られても当たり前という顔をする老人や、連れている孫を座らせる馬鹿もいる。イチイチ面倒臭い。
で、よっぽど空いていない限り立っているし、子供もそう育てた。
先日、東の都の地下鉄で立っていたら、お婆さんが乗って来た。彼女はさも座りたそうに辺りを食いつきそうな目で見回すが、ずらっと座った若者達は皆スマートフォンに夢中なのか、或いは無視しているのか誰も譲らない。どうなるかと暫く見ていたら黒人の若者が身振りで席を譲った。お婆さんは一目散にスタスタと席に座ったが、お礼も言わない。譲った若い黒人は怪訝な顔でチラチラとお婆さんを見るがお婆さんは決して目を合わさない。
ワタクシは他国言語には不自由なもので咄嗟に何も言えなかったが、後で「It’s reality Japan」(英訳に自信なし!)くらい言えば良かったかなと深く反省した。