山の先輩来宅

26日に本番を迎える地元小学校の学校登山に同行することをお願いしていたガイド1名の骨折の治りがイマイチとのことで、慌てて別のガイドを探していたのだが、この学校登山を一緒に立ち上げた故コイケミツル氏の弟さんで、元茅野山岳会長のキヨノリさんが同行してくれることになる。これで本隊に2名、別行動となる特別支援学級の生徒2名にガイドをつけることが出来てヤレヤレである。毎年このガイド役の手配が大変である。土日ならともかく、ウィークデーであるし、元々ボランティアとして始めたことだけに、最近は町から賃金が出るといってもとてもガイドの正規の料金からはかけ離れているので、ガイドを本業としている人にはお願い出来ない。2400〜500mの山ではあるが、小学生70名近くに教員とボランティア父兄20名近くを連れて登るとあってはそれなりの山の経験を持った人でなければならず毎年苦労する。ワタクシももう63歳、そろそろ次の世代にお願いしたいものである。

午後、大学山岳部時代の5年先輩のヤノ氏が奥様と来宅。ヤノさんはピラミッド・ジャパンというクライミング・ウォールやホールドを輸入している会社の社長さんである。何十年ぶりである。
ワタクシが大学1年の剣岳真砂沢定着合宿時、OBであった彼のリードでチンネの左下カンテを登った時の話となる。ガスっていて取り付きを間違え、確か左下カンテ取り付きより左稜線よりから取り付いてしまったのだが、あんなに怖い思いをしたことは後にも先にも初めてであった。垂直なフェースなのだが、リードするヤノさんの山靴の底が中央バンドまでの5〜6ピッチだったか、すっかり見える。ボルトは持っておらず、ハーケンを打てるリスがなく、やっと打ったハーケンも手で引っ張れば直ぐに抜けてしまう。左下カンテにトラバース出来ずにそのまま直上する。数ピッチ登ったらコールが掛かる。「空身じゃないと越せない。俺のザックも背負って来てくれ」と、途中のハーケンにカラビナでぶら下がっていたザックを回収しようとしたら、ハーケンごと抜けた。何とか中央バンドに出た時にはホッとした。二人共ヘトヘトであった。合宿のレーションを出したら「おい、こんな物食えるか。お前の非常食出せ」と二人でワタクシの非常食を食べてしまった。バンドからはワタクシがリードで左稜線に抜けたのであるが、今登った壁に比べればお茶の子サイサイ、途中でビレーも取らずにガンガン登ってヤノさんに怒られた。チンネの頂でヤノさんから「モク切れで動けない。シケモクを拾ってきてくれ」と探しまわったことなど笑い合う。それにしてもクライミング・シューズなんてない時代だったし、ワタクシは合宿前に自分の山靴の修理が間に合わず、ワタクシよりサイズの大きい友人に借りたノルディカの馬鹿重い靴でよく登れたものである。あれ以後、一ノ倉にしろ滝谷にしろ明星にしろ、あんなに怖いルートは登ったことがない。
お互いの仕事の話しや最近の山ブームの話しなどあっと言う間に時間が経つ。大泉での友人の葬儀に行くヤノさんと再会を約束して見送る。
昔一緒に登った仲間、特にザイルを結び合い、命を託した仲間との再会は本当に楽しいものである。

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