24日夕方、イッペイが金沢からやってくる。朝8時頃からノンビリ列車を乗り継ぎ夕方5時頃到着。彼とは昨年春に金沢で30数年ぶりに会ったのだが、我が家に来るのは初めてである。ワタクシが通っていた大学の近くに、友人のミズイがどういう訳かは知らないがタダで借りた梁山泊である一軒家に、イッペイやヤマトやムラタといったその他諸々の北陸・中国地方出身者を中心に共同生活を送っていた中の一人である。イッペイは顔に似合わずワセダの仏文だったが、年中一緒に飲んでいた。3〜4部屋ある古い家で、時には日本政治思想の植手通有先生が酔っ払って寝ていたりした。とにかく仕送りがあれば全て飲んでしまう連中だったが、押入れにはミズイがバイト先でくすねて来たチーズとバターと大きなビニール袋に入ったパンの耳だけは常備されていて、腹が減れば勝手にそれを齧り、酒の肴にもなった。
イッペイは卒業後に金沢で蒔絵職人となり、選ばれて皇居を塗ったりしていた。ワタクシがバイクで旅をした折などに泊めてもらったこともある。ところが10数年前に仕事中に脳血栓を患い、それ以後右手と足が不自由になってしまったのであるが、今は左手で綺麗な字のハガキをくれたり、仕事も左手1本で頑張っているのである。
リクエストした「鯖のへしこ」や彼の実家がある山中温泉の「娘娘饅頭」や金沢のお茶菓子などを土産に持ってきてくれる。で、夜は日本酒となり二人で一升では足りずにもう1本開ける。カミサンやムスメを交えて全く楽しい酒となる。誰彼の消息などを話しているうちに「そう言えばヤマトはどうしている?」となり、岩国に住むヤマトに電話する。
ヤマトは学生時代少林寺拳法をやっていた。ワタクシは学生運動をやっていたので本来体育会系学生とは交わらないのであるが、ヤマトやミズイ(居合道をやっていた)は学ランを着ていたにも拘らず「全共闘派・スト賛成派」であった。法学部の卒業式は学生の処分問題を巡って教授陣が学長派と対立して卒業式をボイコットするという珍しい形となったのであるが、当然学生もボイコット。当日の朝ヤマトに「今日はやるぞ!」と言ったら「今日だけは勘弁。なんせオフクロが岩国から来ちゃってなぁ〜」とのこと。「そんじゃしょうがない」と笑ったのだが、ナニ始まるや学長一派に向けて「帰れ!帰れ!」と大声をあげて走り回っていた。
その後ヤマトは銀行だかに就職したのだが、ばったり池袋かどこかで会った。「お前、何してんや」というので「山で手作りの家を作っている」と言ったら、「そんじゃ、今度行くから」と暫くしてから本当に来た。で、酒を飲んだのだが「こんなことやっておっても生きられんのか?」と言うので「ま、土方やペンキ屋でバイトしてりゃ食える」と言ったら、「そうかぁ〜、銀行勤めなんぞワシには向いておらんきになぁ〜」なんぞと言いながら酔いつぶれた。で、翌朝電話している。「私、ちょっと考えるところあって会社辞めます」なんて言っている。慌てて「オイ、本当にいいのか?」と聞けば「辞めてアフリカにでも行く」。
で、ヤマトは本当にその年だか翌年に先輩を頼ってアフリカの農場に行き、その後放浪。ナイロビだったかではマラリアだかで動けなくなり、娼婦に助けられて暫くその家に居候。元気になってからはイスラエルで昼間はイスラエル兵に少林寺拳法を教え、夜はアラブゲリラに教えで金を作って帰国。それから岩国で塾の先生に収まっている。
で、電話だが、彼も酔っ払っていて話しが通じない。「オクズミか?」まではいいのだが、「お前の秋田の家に三度も訪ねたのに居なかった・・・?」とかトンチンカンなことを言っている。「バカ、なに言ってんだ。イッペイと今飲んでいるとこだ!」と言えば、「何でイッペイを知ってるんだ?」。全く通じない。イッペイが「バカ、ナガノのオクズミ!今、オクズミん家!」でようやく思い出したらしい。「今度岩国に来い!ワシ3月で塾も定年じゃ。何日泊まってもいい。こっち来たらお前には一銭も使わせん。ドンと来い!。酒は仰山ある!。カミサン連れで来い!」と大はしゃぎ。相変わらずである。
二人ともいい具合に酔っ払って寝る。翌朝はちゃんと起きて7時に朝食。「今日どうする?」「東京にでも寄って・・・」。慌ててネットで電車を調べる。
晴れてはいるが八ヶ岳と北アルプスは上の方が雲の中。富士山と南アルプスのみ見えている。「こんな天気、冬の金沢じゃ一日か二日しかないなぁ〜」とのこと。「今度はもっとゆっくり来い」と再会を約束し、上り鈍行に乗り込むのを見送った。