五十肩が治らない。腰痛は治ったのだが、もう3ヶ月以上左肩が痛い。普通に腕を動かす分にはそれほど痛まないが、何かの弾みでちょっとでも腕が捻れると猛烈な痛みが襲う。大きなガラスをガラス棚から出す時、ズボンを履き、シャツの後ろをズボンの中に入れる時など暫く激痛に耐えねばならぬ。習慣でついつい後ろ左側ポケットに入れた財布を出そうとしてレジ前で激痛に襲われる。ならば財布を右側ポケットに入れておけばよいのだが、癖や習慣というものは恐ろしいもので、ジーンズの左側ポケットには財布、右側ポケットには携帯を長年入れていたので、これを逆にすると運転席に座った時にどうもしっくりこない。1ヶ月前に整形外科で左肩に注射を打ってもらい、消炎鎮痛剤だの筋肉緩和剤だのの飲み薬や湿布を大量にもらったのだが一向に効かぬ。
でもって、本日は1ヶ月後の整形外科の予約日。予約時間より30分位遅く来てくれというので10時に行ったらサイワイ直ぐに診てもらえた。「一向に治らぬ」と伝えると腕を色々な角度に動かして「これはかなり酷い五十肩ですね」とのことで、前回より強い鎮痛剤注射を肩に打たれる。と、同時に痛みは消える。但しこれは直ぐに効果も無くなるとのことで、また消炎鎮痛剤と湿布が1ヶ月分出て、「1ヶ月後にまだ治っていなければヒアルロン酸注射を始めましょう」とのことであった。会計と薬で待たされる。
今までにも五十肩になったことはあるが、大抵は2〜3週間で自然に治っていた。『本物の五十肩』がこんなに辛いものだとは考えてもいなかった。東の都に行かねばならぬのだが、長時間の車の運転にも支障があるは、左手では電車のつり革には掴まっていられそうもなく、ステンドの取り付けにも支障があり、困ったことである。おまけに今朝は12℃まで下がった。薪割のシーズンも来てしまった。全く困ったことである。
そういえば、昨日は3ヶ月に一度の辛いガン検査(痛くも痒くもないのであるが、アラレモナイ格好をさせられ、ムスコの先っぽから内視鏡を膀胱まで入れられる・・・)があったが、幸いなことに表在性膀胱ガン(膀胱移行上皮に出来る腫瘍。10日程入院して膀胱鏡にて切除すれば何らの機能的支障は残らない。但し再発率は7〜8割と高い)の再発は見つからず、これで一回目の手術から5年近く、再発手術と抗ガン剤治療から3年7ヶ月となった。まことにメデタイことである・・・
と、また思い出した。明後日はこちらは2ヶ月に一度の内科検診日である。こちらは血圧や、毎回の血液検査から総体的に体をチェックしてもらっている。数値がちょっと上がっては叱られ、ちょっと下がってはお褒めの言葉を戴きが続いている。
何せガンのデパートのようだったオヤジ(頭と肺以外それこそ内臓全てが何年おきかにガンとなり、その都度あちこちの臓器摘出手術を受け、『お腹の中は空っぽ』なのに、84才で亡くなる直前まで三度の食事と酒とタバコを欠かさなかった)の、こちらでの同居以来の主治医が「アンタはガン家系」と診ていてくれ、時々上や下からカメラを突っ込まれるのである。
また69才で亡くなったオフクロは、見つかった時には「悪性リンパ腫で余命2〜3ヶ月」であった。当時は悪性リンパ腫は絶対の不治の病であり、手さぐりでの抗ガン剤の組み合わせ治療が開始されたばかりの頃だったが、これがオフクロのガンとの相性が良かったのか、当時としては最長不倒記録11年というギネスばりの大記録を達成した。3〜6ヶ月入院して強い抗ガン剤で徹底してガンを叩き、治ると1年とか1年半は自由に旅行も出来、再発すればまた叩いてであった。その後悪性リンパ腫は抗ガン剤で完治するガンの代表となっていくのであるが・・・
ま、そんな両親の血を色濃く引き継いだワタクシであるからガンの一つや二つはきちんと引き受けているのだ、が、今週は3回の病院通いというのは結構ハードである。周りは病気の『気』が充ち満ちている場所で、予約診療でも結構な時間を待つというのはそれだけで病気になりそうなのである。
ついでにもっと思い出し、ちょっと残念なのは京都のタザワさん達『京都のさるバーに集まる面々』が作った『GUN倶楽部』の会員徽章のピストル型バッチをもらっておく前に、タザワさんがワタクシと同じガンからの転移で逝ってしまったことである。 「オクズミくんも仲間になりはりましたなぁ〜。ワシと一緒のガンやし、『さるバー』に時々一緒に行ってくれはったさかい、『GUN倶楽部』に入れてあげまひょか。」と言って下さっていたのだが、生憎ピストルが手元に無かったのでまだ貰っていなかったのである。つくづくも残念である。今、『がん友』であるヨシユキさんと「どう見たって俺たちガンには見えないよな」と『GUN倶楽部 信州支部』を考えている・・・