夕方、昔住んでいた家の隣だった故ナトリさんの娘さんのヒライデさんから電話がある。「もしもし、ちょっとお願いがあるんだけれど・・・息子がオクズミさんのブログを見つけて読んでいたらお父さんのことが書いてあって・・・明後日の新盆に集まってくれる人達にブログのコピーを配りたいんだけれど・・・」とのこと。昨年、96才でお亡くなりになった六衛さんのことを前にちょっと書いたのだが、「面白い人だったお父さんのことを書いてくれたのが嬉しくて・・・本当にお父さんらしくて・・・」と。「お恥ずかしながら・・・あんな拙い文章で良ければ」というしかなく・・・「本当によくして貰ったのに・・・もっとちゃんと書いておけば良かったんですが・・・」とお応えする。
夜、『8.12・日航機墜落 30回目の夏』という番組をテレビで見る。もうあれから29年である。番組を見ながら涙が流れる。
あの日の夕方、知り合いの東京の新聞記者から電話があった。いきなり「飛行機の異様な爆音や爆発音を聞かなかったか?」と言われ事故を知る。「八ヶ岳周辺に日航機が墜落した。すぐ外に出て火が見えないか見てくれ」「音も聞いていないし、見えない」と答えたら「オフロード・バイク持っていたよな。直ぐに八ヶ岳全体が見渡せる所までバイクで登って見てくれ。」と言われる。直ぐに入笠山の途中の八ヶ岳全体が見渡せる所まで登り確認するが見えない。その旨、公衆電話から電話したら、「4WDのトラックを満タンにして、バイクの予備燃料も用意してバイクをトラックに積んで家で待機してくれ。俺もこれからそっちに向かうから、墜落場所が確定したら何処かで俺を拾って、バイクで俺を現場まで連れて行ってくれ」とのことで、異様な緊迫感を持った有無を言わせぬ口調であった。現場が近くで救助に行くというなら直ぐにでも行くが、取材の為になど嫌であった。それまでに谷川岳や滝谷や冬の富士山でメチャクチャになったご遺体を幾つか見ていた。飛行機事故の凄惨な現場などに取材の為になど行きたくはなかったのに断れなかった自分が情けなかった。それから一晩中テレビの前に座っていた。未明だったか「群馬県側らしい。もう待機しなくていいよ。悪かったな」との電話にほっとした。毎年、日航機事故のニュースを見る度に断れなかった自分の不甲斐なさを思い出す。